ぼくの木馬座始末記 1 ことの始まり…
しばらく前のこと…ネットで<木馬座>を検索したところ、劇団木馬座の思い出という項目を見つけた。
サイト名は「アヨアン・イゴカーの芸術の森」という…絶対に1回では覚えられない名前だった。
30回以上連続する文章を読んでいるとこれに触発されて断片的なエピソードがつぎつぎにうかんできた。

たとえば上の画像はぼくが愛用しているトンカチ(通称ナグリ)とバインド線だが、
アヨアンさんのブログにも同じナグリの画像があり、ほとんど笑ってしまった…
40年近く前の道具を愛用している人がもう一人いるのだ…と
そんなこともあり、これは自分なりになにかまとめてみようか…そう思っていたところ、
ぼくも人形劇団のサイトとブログをはじめることになったので、これをきっかけに
トライしてみることにした。
アヨアン・イゴカーさんのように几帳面なものではないが、ぼくのスタイルではじめてみたい…
木馬座に実質在籍したのは2年半ほどなのだが、木馬座が劇団木馬座に変化する劇的な状況
(このことはいずれふれることになる)に身を置いた結果、短いけれど通常の5年10年にも匹敵する
経験ができたと思っている。ぼくにとって特に重要なことは人形劇をというライフワークに出会ったことだった。
そんな思いで…ぼちぼち始めることにする。
■木馬座との出会い■
昭和46年の春…22歳のぼくは途方にくれていた。
当時原宿にあった東京デザインアカデミーのグラフィック科を2年途中で休み、受験した大学に失敗していた。
情けなかった。普通に進学していれば大学卒業の年だ。ぼくはいったい何をしているのだろう…
高校生のころからぼくはまんが家になろうと思っていた。
今から思い返すとひどくいいかげんなものだが、それを後押ししてくれたのが
当時NHKで放送されていた「まんが学校」(司会はやなせたかしと立川談志)だった。
これは単行本にもなり、その中にまんが家を目指す人は絵はもちろんだが、
広く知識をもたなければいけない…といった趣旨のことが書かれていた。
ぼくはそういうところだけ真に受け、高校を出るとアルバイトをしながら英会話、デッサンなどをかじった。
グラフィックデザインを学んだのもその一環のつもりだったのだが…中途半端に挫折したのだった。
そんなとき、朝日新聞で木馬座ぬいぐるみ演技研究生募集の広告をみつけた。
木馬座が当時ケロヨンが評判になっているメジャーな児童劇団ということは知っていた。でもそれだけ。
児童劇を見る機会はなかったし、日本テレビで評判になったケロヨンアワーも見たことがなかった。
それにしても、これまで経験のない児童劇を勉強出来て、少しだが給料ももらえる…こんなうまい話は
ないではないか…そう思ったぼくはさっそく出願手続きをすることにした。
そして、必要な書類を用意し、いよいよ面接に出かけていくのだが、ここからは次の話…