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ぼくの木馬座始末記 1 ことの始まり…

 ■きっかけは「劇団木馬座の思い出」■
 しばらく前のこと…ネットで<木馬座>を検索したところ、劇団木馬座の思い出という項目を見つけた。
サイト名は「アヨアン・イゴカーの芸術の森」という…絶対に1回では覚えられない名前だった。
30回以上連続する文章を読んでいるとこれに触発されて断片的なエピソードがつぎつぎにうかんできた。
naguritobansenn.jpg 
 たとえば上の画像はぼくが愛用しているトンカチ(通称ナグリ)とバインド線だが、
アヨアンさんのブログにも同じナグリの画像があり、ほとんど笑ってしまった…
40年近く前の道具を愛用している人がもう一人いるのだ…と
そんなこともあり、これは自分なりになにかまとめてみようか…そう思っていたところ、
ぼくも人形劇団のサイトとブログをはじめることになったので、これをきっかけに
トライしてみることにした。
アヨアン・イゴカーさんのように几帳面なものではないが、ぼくのスタイルではじめてみたい…

 木馬座に実質在籍したのは2年半ほどなのだが、木馬座が劇団木馬座に変化する劇的な状況
(このことはいずれふれることになる)に身を置いた結果、短いけれど通常の5年10年にも匹敵する
経験ができたと思っている。ぼくにとって特に重要なことは人形劇をというライフワークに出会ったことだった。
 そんな思いで…ぼちぼち始めることにする。
   ■木馬座との出会い■
 
昭和46年の春…22歳のぼくは途方にくれていた。
当時原宿にあった東京デザインアカデミーのグラフィック科を2年途中で休み、受験した大学に失敗していた。
情けなかった。普通に進学していれば大学卒業の年だ。ぼくはいったい何をしているのだろう…

 高校生のころからぼくはまんが家になろうと思っていた。
今から思い返すとひどくいいかげんなものだが、それを後押ししてくれたのが
当時NHKで放送されていた「まんが学校」(司会はやなせたかしと立川談志)だった。
これは単行本にもなり、その中にまんが家を目指す人は絵はもちろんだが、
広く知識をもたなければいけない…といった趣旨のことが書かれていた。
ぼくはそういうところだけ真に受け、高校を出るとアルバイトをしながら英会話、デッサンなどをかじった。
グラフィックデザインを学んだのもその一環のつもりだったのだが…中途半端に挫折したのだった。

 そんなとき、朝日新聞で木馬座ぬいぐるみ演技研究生募集の広告をみつけた。
木馬座が当時ケロヨンが評判になっているメジャーな児童劇団ということは知っていた。でもそれだけ。
児童劇を見る機会はなかったし、日本テレビで評判になったケロヨンアワーも見たことがなかった。
それにしても、これまで経験のない児童劇を勉強出来て、少しだが給料ももらえる…こんなうまい話は
ないではないか…そう思ったぼくはさっそく出願手続きをすることにした。 

 そして、必要な書類を用意し、いよいよ面接に出かけていくのだが、ここからは次の話…
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ぼくの木馬座始末記 2 面接前後のこと

 ぬいぐるみ演技研究生に応募はしたものの実は児童劇団がどんなものなのか、
何もわかっていないまま、特に準備をすることもなく面接の日を迎えた…
■テストはリズムボックスで■
 当時、木馬座のスタジオは東急大岡山駅から歩いて10分ほど、環七を越えたところにあった。
住宅街に突然現れたコンクリート打ち放し3階建てのビル…
それほど大きくはないが、外観からはちょっと夢のあるワクワク感が伝わってくる建物だった。

 1階200㎡ほどのフローリングスペースが面接会場。
長机を前に大御所の藤城清治さん、劇団代表の北牧子さん…あとは覚えていないが数人が並んでいた。
 テストは一人づつ童話の朗読とダンスが課題だった。ダンスといってもリズムボックスの音に合わせて
即興でステップを踏むものだった。
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(2011/07/21)
セガトイズ

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リズムボックスといえば今なら上の画像のような安価なおもちゃでも何種類ものリズムをきざめるのだが、
その時のものは今の空気清浄機ぐらいの大きさで、しかもがっちりとしたアンプのような作り、
いかにもプロ仕様の代物で、見ただけで緊張してしまった。
しかもダンスなどフォークダンスと盆踊りぐらいしか素養がないのでどうなることかと思ったが、
音がでてしまえば、「えーい」とやけくそで音に合わせてやたらに動き回った…
後から考えると、これはいったい何のテストだったのか…よくわからない。

  応募者が何人いたかはよくわからないが、結局合格したのは4人。
男は僕と名前が女性のようだがひげの濃いIさん。あとはSさんという赤羽で独り暮らしをしている
素朴な感じの女性、もう一人色白できゃしゃでこれはほんとにお嬢さんぽい人だった。
ところがこのお嬢さんには致命的な弱点があることがまもなく判明する…

 ■泳げないライフセーバー■
彼女はぬいぐるみに入ると気持ちが悪くなるのだった 。
(面接のときはぬいぐるみに入ることはなかったのでしかたがない?)
実はぬいぐるみの中はとても臭いのだ。洗濯することはほとんどなく、いろいろな人の汗がたっぷりしみ込んでいるのだから当然といえば当然…たとえて言えば使い込んだ剣道の小手とか夏場に十日ぐらいはき続けた分厚いソックスの臭いが近いだろうか…こんな代物を頭にすっぽりかぶり、胴体からも面より強烈なにおいがあがってくるわけだから、確かにつらい。
でも、人間は慣れるものだ。普通ならしばらくすればそれほど気にならなくなるのだが、彼女はだめだった。
 これを聞いた営業のHさんが「使い物にならないじゃないか…」とあきれていたが、当然だろう。
これでは泳げないライフセーバーのようなものだ。彼女は一番最初に姿を消した。

 さて、合格通知をもらったぼくはいよいよ定期を買って劇団へ通うようになるのだが、これは次の話…

ぼくの木馬座始末記 3  初出勤、そして…

いいよいよ初出勤…そしてスタッフとの顔合わせ…一番印象に残っている日でもある。 


 ■ 初出勤 ■
 合格通知をもらい、最初の指定の日にスタジオに行ったのは5月6日。
スタジオの入り口で上履きにはきかえるのだが、見ると黒革のスリッパが1足出ていて、
白い文字で「藤城」とある。これを見ただけで彼が別格なことがうかがえた。
早すぎたのか面接のあった1Fフロアーは照明ついておらず、窓際にはぬいぐるみの入った袋が
壁に沿ってずらりと並んでいる。前日は日本青年館ホールで木馬座フェスティバルが開催されていたのだ。
これをみながらぼくは「1年前に木馬座にいたらなぁ…」と思ってしまった。
一年前の1970年は大阪万博の年。木馬座はお祭り広場で華やかなショーを展開していた。
男ばかりの4人兄弟で万博見物に出かけたぼくとしては、出演者になりそこなり残念なことだった。

 しばらくしてYさんというとても地味なおじさんが現れた。
ギロバチというキャラクターの声をあてている劇団員だという。
この人がぼくの面倒をみてくれる担当のようで、一応の説明があったあと、あいさつ周りを設定してくれた。
当時の木馬座は鉄筋のスタジオと道を隔てて隣接する場所に「票券」「経理」「車両」の各部門があった。
票券はチケット管理が本業だが、暇なときは色紙にキャラクターの輪郭をシルク印刷したものに
カラーインクで彩色したサイン会用グッズを作っていた。
中心になっていたのは、通称イマちゃんと呼ばれるもっさりとした大男。
後々彼は博覧強記タイプの男であることが分かった。
経理には後になって直属の上司となるMさんがいた。
初対面の時「よう、よろしく」と元気に対応してくれたのが印象的だった。

 ■スタッフのこと ■
 入って直ぐにわかったことは劇団といっても、芝居をする劇団員は皆無で、
かろうじてそれらしいのはケロヨンの声の新井勢津朗さんとギロバチの声のYさんだけということだった。
かつては100人以上が所属していたというのだが、このあたりで、
「おやっ?なんかイメージが違うな…」と感じ始めた。

 さて、制作部はチーフのTさんと部下のIさん。僕はここに配属されることになる。
二人とも非常に個性的な人物で、チーフは自衛隊あがりで短髪、ワイルド、男性ホルモン全開のようす。
IIはぼくより少し年長だが、ひげを蓄え、ギョロ目。似顔絵が描きやすい風貌だった。

 藤城さんは当時40半ば過ぎか…すでに頭は薄く、むさ苦しいおじさんに見えたが、
若い頃の写真をみるとなかなかハンサムな慶応ボーイだ。
木馬座は(たぶん前身のジュヌパントル時代から?)彼をサポートする女性が中心になっていることがすぐにわかった。
奥さんは通称チョコさん。小柄で細身、もう現役ではないが初代ケロヨンを演じたとのこと。
彼女は経理部門を担当していた。
対外的に社長は北牧子さん。見た目はひっつめ髪の地味な人、でも芝居、お話に対する情熱は
一番強い人だった。彼女は香山多佳子の名前で後に数冊の本を出している。もちろん挿絵は藤城清治だ。

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(1990/08)
藤城 清治、香山 多佳子 他

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衣装のスペシャリストはHさん(司会の時は水木よう子と名乗る)。ぬいぐるみのノウハウは
彼女が一番持っていたのだと思う。後からこんなエピソードを聞いた。
ケロヨンのまつ毛は分厚いフエルトに櫛のように切れ目を入れて作るのだが、
彼女がハサミを入れると目玉に張り付けた時一発できれいな形になるのだという。
もう一人、当時メインの司会者だった森あき子さん。
彼女とはいろいろな形で行動を共にする機会があったが、
ハスキーボイスでチャキチャキして元気な人だった。


さて、研究生となってすぐに思いもしなかった実践的な劇団生活が始まるのだが、これは次の話…

ぼくの木馬座始末記 4 ロケの思い出

研究生となって夏までの間、一番メインの仕事はTBSで放映されていた「ケロヨンと遊ぼう」のロケに同行することだった。
 「ケロヨンと遊ぼう」は1971年4月から9月まで平日の夕方に毎日10分程度放送されていたものだ。
ケロヨンが色々な職場や施設を訪問する今でいう小学生の社会科見学のような番組だった。
頻繁にロケがあり、ディレクター、アシスタント、カメラマンのクルー(スポニチ映画社)と
マイクロバスであちこちへでかけた。
 
  ■上野動物園ロケ■ 
 ロケバスに同行するようになったばかりのこと。上野動物園にいった。
入り口付近にスタンバイしていると、「ケろちゃーん ケロチャ―ン」の大合唱が聞こえてきた。
見ると遠足に来たらしい幼稚園児たちの集団がこっちを見ているのだった。(今は45歳ぐらい?)
ケロヨンの人気ぶりを生で初めて知った瞬間だった。
動物園の前にいるケロヨンや動物のぬいぐるみは絵柄としてなんだかおかしく、
動物たちはこれをど感じているのだろう…と思ったことだった。

  ■私が生まれて育ったところ■
 別に身の上話をするわけではない。
 川崎にあるコロムビアレコードのプレス工場を見学に行った時のこと、
白いブラウスに緑色のホットパンツ(だったと思う)を身に付けた若い女性が案内役となった。
衣装の色合いがケロヨンとかぶるなぁ…などと思った。この女性はこれからデビューする新人歌手だという。
しばらくしてこの人、野路由紀子の「私の生まれて育ったところ」がけっこうヒットしたのだった。
資料を見ると、彼女はこの時18歳だったのだ。
 
  ■ギロバチはどんなハチ?■
 ロケは移動時間がけっこうある。ケロヨンの声をあてている新井さんは通称が新井亭というくらい
人を飽きさせず、面白い話をする人だった。移動中のロケバスではいろいろな楽しいエピソードを
聞かせてもらった。ひとつ覚えているのは…ギロバチの話題…ギロバチは片目のタヌキで、
名前の由来はギロギロ…とにらんでバッチンとウインクさせるところからきている。

 あるイベントでのこと、ギロバチのキャラクターを十分知らなかった司会者が
「それではギロウバチの登場です…」とまるでクマンバチかアシナガバチのように紹介した。
それを袖で聞いた役者は面白がって両手を横でヒラヒラさせながら横歩きで
舞台に出て行ったとのこと。まぁ、会場の子どもたちはギロバチを知っているのだから
単に面白い動きで出てきたな…ぐらいだったのだろうが。

 「ケロヨンと遊ぼう」のギロバチはSさんが演じていた。
彼の決めポーズは長いしっぽをまるでサッカーでパスをするように
サイドキックして振り上げ、片手で抱え込むというものだった。
ぼくはこの動作を見て、自分に与えられた衣装?をどう使って子どもを喜ばせようかと
工夫する役者魂を感じていた。
ぼくの記憶が正しければこのギロバチケとケロヨンはカップルで二人とも研究生仲間だった。

  ■ケロヨンが来ない…■
 ぬいぐるみの便利な点は、中にだれが入っているかわからないところだ。
もちろんだれでもいいというわけではないのだが、まさかの事態が起こってしまった。

 竹橋にある毎日新聞社本社に行った時のこと、突然ケロヨン役者が突然体調を崩した。
ロケはやらなくてはいけない。時間はない中で、スタッフの目はぼくに注がれた。
お前が入れというのだ。研究生といってもほとんど何も教えてもらえないまま外回りをしているのだ。
当然無理なのだが、物理的に小さなケロヨンに入れる体型だけで指名されたわけだ。
何も知らない新聞社の方々はケロヨンを人気者として扱ってくださり、無事にロケは終わった。

 今だから告白するが、この時、調子に乗って職員にせがまれるまま、サインしてしまった。
もしもこの時のサインをお持ちの方がいらしたらごめんなさい。そして藤城さんごめんなさい。
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<上は当時を思い出して書いてみたサイン…ケロヨンの表情はもっとグレードが高かった…多分>

 ぬいぐるみ演技の勉強は進まないまま、実践的な舞台はボチボチと入ってくるのだが、これは次の話…

ぼくの木馬座始末記 5 みつばちマーヤのぼうけん

意外と早く舞台に立つ日がやってきた…
  ■ぼくでいいんですか?■
 入団して2カ月前後のころ、東京都が肝いりの親子向けの観劇会があり、
渋谷公会堂、日比谷公会堂で「『みつばちマーヤのぼうけん』を上演するという。
これはぼくが入団する直前に口演していた演目だった。
あの面接のあった1階フローリングのスタジオに外部から役者さん、音響さん、照明さんが集まり
けいこをする現場に初めて立ち会った。ぼくは物珍しさでけいこを見ていたが、ひときわ元気で
明るい女の子がいた。主役のマーヤを演じる加藤ひとみだった。
彼女は当時中学生。その後、劇団木馬座でシンデレラを演じることになる。

 さて、ぼくも見学するだけではなく、クマンバチのちょい役を与えられていた。
クマンバチ軍団登場の場面を稽古してる時…
長身ひげづらの演出助手熊谷章さん(夏の公演『スケートをはいた馬』で主演することになる人)が
「バック転のできる人いない?」といった。だれもいない。ここが僕のおっちょこちょいのところなのだが、
よせばいいのに「ハンドスプリング(腕立て前転)ならできます…」と手を上げてしまった。
そして実際にやってみせると、「うーん…」といいながら、これが採用されて段取りをつけられた。
結局演出上は不本意だろうに、渋谷公会堂の下手袖から一人走り出て中央でドタンと一回転。
そこで仲間のクマンバチを手招きする…というなんともクオリティの低い場面ができあがった。
これが舞台デビューである。

  ところで…小学低学年の時、創元社の世界少年少女文学全集の1冊に納められていた「みつばちマーヤの冒険」に挫折した記憶がある。出会うのが早すぎたのか、話と相性が悪かったのか…
後日ぼくが図書館員になってからいわゆる名作物(幼年向けにリライトしたもの)の是非がいつも頭にあった。
木馬座の演目には児童文学の名作が取り上げられることが多い。批判もあるが、ぼくはメディアを変えたものは別物と考えるようになった。ビジュアル化されたものはそれが挿絵であってもテキストを拘束する。
 下の2冊を見比べてほしい。熊田千佳慕の精緻な描画とアニメで擬人化された描画…読者の頭の中で動き回るマーヤがどんなに違うことか…。でもどちらがどうとはいいたくない。原作を冒涜…とまで神格化する見方をぼくはしない。

みつばちマーヤの冒険 (小学館児童出版文化賞受賞作家シリーズ)
みつばちマーヤの冒険 (小学館児童出版文化賞受賞作家シリーズ)
(1996/04)
ワルデマル ボンゼルス、熊田 千佳慕 他

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みつばちマーヤの冒険 (絵本アニメ世界名作劇場)みつばちマーヤの冒険 (絵本アニメ世界名作劇場)
(2001/08/01)
アイプランニング、日本アニメーション株式会社 他

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  ■現場で対応の教訓■
 この公演では舞台監督の裁量というか、決断を目の当たりにした。
日比谷公会堂は舞台の高さが低く、本公演の背景が飾れない場面があった。
舞台監督は大きな花を象徴的に残し、あとはのこぎりで切り取るという指示をだした。
ずいぶん大胆なことをするなぁ…と驚いた。その後…色々な会場、状況によって
現場合わせの臨機応変な処置をしなければならない経験をするのだが、これが最初の出来事だった。

  ■陰りの予感■
 この芝居には木馬座演劇スクールの子どもたちがミツバチ役で大勢出演する。
倉庫から衣装を引っぱり出すと、どれも汗くさくてひどいものだった。これを洗濯するでなく、
少し干すだけでまた着せると思うと芝居の影の部分を初めて見た気がした。
付き添いの方から苦情があったというが、当然のことだった。
 今改めて当時のプログラムをみると、相当手抜きというか、お金のかかっていない、
熱の入っていない様子がうかがえ、裏表紙は演劇スクールの宣伝だけである。
大道具、小道具も全盛期のそれと比べるとかなり安っぽいものですでに
木馬座の経営状態がよろしくないことが実感できるはずなのだが、
その時はまだ夢中の状態でそれどころではなかった。

『みつばちマーヤ…』のあとに『白雪姫』があるのだが、これはまた次の話…

ぼくの木馬座始末記 6 白雪姫


『みつばちマーヤのぼうけん』のあと、しばらくしてメジャーな演目を体験することになった。
  ■白雪姫は男性だった■
 上演のいきさつは知らされていなかったが、グリム童話で有名な『白雪姫』の稽古が始まった。
世田谷区民会館での一日だけの公演だった。
本公演からそれほど時間はたっていなかったのだろう。
集まった役者たちがみな劇に慣れている様子だった。
一番おどろいたのは主役の白雪姫を演じるのがそれほど若くない男性だったこと。
Hさんというこの男性は今でいうニューハーフ系のタレントと違い、化粧っ気持はまったくなく、
しぐさがだけがとても女性っぽいのだった。
だからTシャツに黒タイツ姿でリハーサル中はなんだか違和感があった。
しかし、衣装をつけ、面をかぶっての演技は中身が男性とは全く感じさせないものになっており、
芸の力を学んだ気がした。

 ぼくも本格的な面をつけて初めて小人役で出演した。この時稽古を仕切ったのは新井さんだった。
小人たちが自分のベッドの後でカンテラを掲げながら一斉にブルブル震える芝居や
そーっと近づく場面で、膝から下を脱力させてグルグル回しながら
「ソロリ…ソロリ…おソロソロ…」と一歩づつ進んでいく振付などは公演の中で
ウケた動きを取り入れてきたのだろうと思ったものだった。

 1回きりのこともあって芝居の中身はあまり印象に残っていない。
しかし、音楽はとても親しみやすく、今でも「7人の小人のうた」などは歌えるほどなのだ。
ケロヨンと藤城清治ミュージカルの世界ケロヨンと藤城清治ミュージカルの世界
(2008/07/23)
演劇・ミュージカル、新井勢津朗 他

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 数年前から上のCDが気になっている。中に白雪姫の全曲が納められている…
但し、どうしても買いたいとまで思えなくて現在も保留状態…

 ■人形の面について■
 この時の白雪姫の面は藤城清治の特徴的な目はしているが、鼻などは丸く単純化されており、
かわいくはあっても有名なあのお妃のせりふ「鏡よ鏡…この国で一番美しいのはだれ?」に
対応しているとは思えなかった。
様々な絵本を見るようになって、言葉で「美しい…」というのと
絵や人形で具体的に表現するのとではだいぶ違いがあると思うようになった。
  もっともグリムの元話では白雪姫は7歳だと知り、びっくりしたのだけれど…

 特徴的な2冊をみてみよう…

白雪姫と七人の小人たち白雪姫と七人の小人たち
(1975/06/25)
グリム

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ディズニースーパーゴールド絵本 白雪姫
ディズニースーパーゴールド絵本 白雪姫
(2010/08/28)
森 はるな

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 上はたぶん一番リアルな女性として描かれた1冊。
画家が真剣に美を追求するとこうなるのか…でもこれが一番美しい…といわれると
ちょっと首をかしげたくなる。
 下はおなじみのディズニー絵本…これも美しいとは言えないと思う。
ヒロインについては藤城清治のように目鼻を単純化して記号のように表現にするほうが
雑念を入れる余地がなくていいのかもしれないと考え直すようになった。
 
 1973年5月のこと、藤城清治がジュヌ・パントルとして郵便貯金ホールで白雪姫を上演した。
劇団木馬座にいたぼくは勉強のつもりで見に行ったのだが、このときの主役は15歳の女の子が
面をかぶらずそのまま顔を出して小人たちと絡んでいた。
かわいい子には違いないが、一番きれい…として演技するのは居心地が悪かったのではなかったか…
それとも快感なのかな…?役者なんだから。

 さて、『白雪姫』のあと、ぼくの人生で一番長く密度の濃い夏が始まるのだが、それは次の話…
 

ぼくの木馬座始末記 7 夏公演に向けて…

        研究生となった1971年夏の公演は『ピーターパン』と『スケートをはいた馬」にきまった…
 制作部の仕事としてテレビのロケをやりながら、小道具を作る仕事が入ってきた。
  『ピーターパン』はディズニーアニメで何回か見ているが、『スケートをはいた馬』は
まったく知らなかった。
 一番初めに作ったのはビールジョッキだった。
キャプテンフックの海賊船の上で海賊たちが手にするものだという。
発砲スチロールのブロックを与えられ、それから作れという…
ぼくはカッターとのこぎりを使い、ジョッキのイメージを思い浮かべながら切りだしていった。
小学生の時、当時雑貨屋で売っていた亀の子石鹸を彫刻刀で彫って
横向きのブタを作った経験があり、 その時のことを思い出しながら削っていったのだった。
すると割合評判がよく、ほめられた。確かに初めての割には形になっていたと思う。
切り出した原型に紙を張り、色を塗って仕上げに木工ボンドを塗るように指示された。
その通りにしたらボンドで真っ白になり、こんなでいいのかなと思っていると、
「明日になればわかる」といわれた。翌日に見るとジョッキはまるでニスを塗ったように
すきとおり、つやが出ていたのだった。
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 あいつはスチロールの成型ができると思われたのか、次の仕事はピーターの手下の
迷子たちに攻撃されて空から落ちるウェンディの吹き替えづくりだった。
この夏のプログラムは2作とも主役は人間が素面で演じるのだ。
モデルが生身の人間なのでこれは大変だった。
 ジョッキはなんとかなっても人間の顔はごまかしが効かない。
トレーニングができていないからどうしても平面になっておかしいのだ。
あとでウェンディ役の女の子に「ひどい…」と怒られてしまった。

 『スケートをはいた馬』はケストナーの原作で原題を『五月三十五日』といい、
暦にない不思議な日に不思議なことが起こるという設定の話だった。
その第1幕で通常の日めくりカレンダーが一瞬で35日になるという注文が来た。
これは日めくりの一番上の一枚を布で作りマジックテープで固定。、これにテグスを結んでおき、
きっかけで背景の後ろから引きはがす…という仕掛けとなった。
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こんな仕掛けでも、舞台で1回限りとしてみると面白い効果になるのだった。

  『スケートをはいた馬』の準備ではもう一つわすれられないことがあった。
公演会場となる読売ホールがある有楽町そごうの壁面に看板を描いたのだ。
藤城清治のデザイン画をもとに4メートル×5メートルぐらいの看板をスタジオで自主制作した。
この時、原画を拡大、デッサンするのを担当し、わりと上手に仕上げ、更にネオカラーによる
調色が我ながらうまく再現できた。スタッフが感心し、制作中に藤城さんが2階からのぞいて
満足そうに笑っていたのがうれしかった。
 看板を外注できないほどお金に困っていたのだとずっと後でわかった。
しかし、この時はまさかもっと直接公演に深くかかわることになるとは想像もできなかった。
 公演が近づいてたある日…
突然『スケートをはいた馬』の稽古についていた劇団員のYさんから呼び出された。
 そして思いがけない形で舞台に立つことになるのだが、これは次の話…

ぼくの木馬座始末記 8 スケートをはいた馬 その1

 7月になってからだったと思う…いきなり稽古場に呼び出され、馬の後足になれといわれた…


 芝居の劇団側責任者だったYさんが演出の関矢幸雄さんに「若手のNくんです…」と
紹介した。若手には違いないが技術もないのになぁ…と思った。
後で事情を聞くと『スケートをはいた馬』では馬のネグロカバロは主役のコンラート少年、
リンゲルフート行動を共にする役なのだが、
その役者二人(四足だから二人で演ずるのだ)が演出家の納得する動きができなくて
交代させられたとのこと。いきなりのことで戸惑いはあったが、
前足役のGさんがベテランだったので動きのポイントを教えてもらいながら芝居を覚えていった。

 馬の後足役は体をほぼ90度に曲げて前足役の腰につかまりながら演技?をすることになる。
姿勢もつらいが、視野が狭く、馬の腹の部分に開いた20㎝×10cmぐらいの窓から
床しか見えないのも厳しかった。更にこの役はタイトルにあるとおり、相当部分ローラースケートを
はいたまま動き回り、特に、なまけものの国では曲に合わせて舞台を縦横にスベリ回る見せ場があるのだった。
馬の後足というポジションはぼくにあっていたと思う。
  
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 7月21日…夏休みにあわせるように読売ホールで本公演が始まった。
読売ホールでの毎日は刺激的で楽しかった。馬の声をやっている中野宏さん、
リンゲルフートおじさん役の熊谷章さんと一部屋を与えてもらい、
なんだか他の役者さんに申し訳ない気持ちだった。
楽屋には当時薔薇座を立ち上げたばかりの野沢那智が来たことを思い出す。 

  『スケートをはいた馬』の舞台背景は白地に黒の線描をメインにしたモダンというか
簡潔なスタイルで、藤城美術では異色な印象を受けるものだった。

 リンゲルフートおじさんが「れいぞうこー の とがあいて…」と
歌を歌いながら冷蔵庫から次々にとびだす野菜や肉をフライパンで
軽快に受け止める…というのがオープニングだった。
実際は小道具担当が裏からポンポン投げているだけなのだが、
客席から見るとなかなか楽しいもので、芝居の演出は
お金をかけなくてもアイディアで面白いものになるものだと思った。

 毎朝、開演前にローラースケートの練習をしたのも楽しい思い出である。
2場の「なまけものの国」ではバックで舞台中を周回する部分もある。
この時だけはぼくがリードしなくてはならないのだが、
何しろ下しか見えないから気をつけないと最悪舞台から転落する。
舞台床面の木目やフットライトの存在を意識した練習がどうしても必要だった。
ぼくは中学生時代ローラースケートに凝っていて、学校の近くあった後楽園のローラースケート場へ
放課後頻繁にかよったことがあった。まさかその時の遊びが役に立つとは…
まだだれもいない舞台でスケート練習をしながら
たった数ヶ月前の自分とくらべて今の立場を不思議に思ったものだ。


 さて、8月18日に読売ホールでの公演が終わり、大阪公演になるのだが、これは次の話…

ぼくの木馬座始末記 9 スケートをはいた馬 2

東京公演が終わり、大阪へと舞台は移る…

  ■影絵映画■ 
読売ホールでの公演では『スケートをはいた馬』の他に影映画『あるきだした小さな木』が
上演された。
気持ちに若干余裕がもてるようになってからは時々客席後方からのぞいた。
あるきだした小さな木あるきだした小さな木
作:テルマ・ボルクマン / 絵:シルビー・セリグ / 訳:はなわ かんじ / 出版社:偕成社絵本ナビ

 藤城清治の影絵で有名なのは『泣いた赤鬼』『人魚姫』などだが、
『あるきだした小さな木』は初めて聞くタイトルだった…
翻訳出版されて2年足らずの作品だったので、知らなかったのも当然か。

 ストーリーは小さな木が両側に立つパパとママの木から独立…
新天地を目指して旅を続ける中で、やがてみんなに喜ばれる
大きな木になる…というもので、心に残るものだった。
この影絵は原画に近く、藤城影絵とはちょっと印象の違うスタイルだった
 
  ■大阪公演へ■
 東京公演が終わり、大阪へ新幹線で向かう日のことだった。
大阪へは同行しない役者さんが見送りに来てくれた。
ところが車内で話が弾み、発車のブザーに気づかず
そのまま出発してしまった。その時の次の停車駅は名古屋…
幸い車掌さんに事情を話すと無事に帰れる事にはなったが…
今なら料金を徴収されているかもしれない。

 大阪での公演は毎日ホールだった。(今はもうないらしい)
現地で合流した新メンバーとリハーサルをして本番を迎えたのだが、
公演に入って直ぐ、突然腹痛を起こした。
おなかが突っ張って苦しく、どうにもならない…
病院で診察の結果、入院することになった。
多分ずっと前屈みの姿勢をとっていること、
何らかのストレスが原因なのだと思う。
かけだしの分際で舞台に穴をあけてしまったのだ。
点滴を受け、ベッドで横になっていても舞台が気になって落ち着かない。
見舞いに来てくれた大阪事務所の方にもひたすらお詫びした記憶がある。
それでも一泊しただけで復帰できたのは救いだった。
出演者の方々は気遣ってくれたが、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 このときに代役を務めてくれた人のローラースケートの出来は
ちょっぴり気になったけれど、とても聞く勇気がなかった。

 ハプニングはあったが、大阪の公演が終わり新幹線で東京駅に降り立った時、
予期せず、何とも言えない爽快感湧きあがった。
舞台に穴はあけてしまったけれど、ひと夏の公演にかかわり、
やりきったという思いだったのだろうか…
それなのに、お客さんの反応や芝居の出来については
今となってはあまり覚えていないのは情けない。

 さて、同じ時期の公演『ピーターパン』については次の話で…

ぼくの木馬座始末記 10 『ピーターパン』

ピーターパンはぼくにとって特別な作品だった…
 小さい時…父はディズニー映画が封切りになると必ず連れて行ってくれた。
中でも特に好きな作品が『ピーターパン』だった。
日本初公開が1955年だからぼくが7歳の時になる。
印象的なのはネバーランド(たしか「ないないじま」と訳されていた)の緑、
ピーターパンのコスチュームの緑で、ぼくが今でも緑色が好きな
原点ではないか…とまで思っている。
   
 自分の公演があったので、舞台を見たのは8月下旬、大阪へ行く直前のことだった。
面白かった。ディズニーアニメ見せ方は違うが、海賊船、インディアン、人魚、ワニフライング…
楽しめる要素がてんこ盛りなのだ。
男の子が一番面白い舞台はやはりピーターパンじゃあないだろうか。
 この作品には弟を引き込んでいた。(トンボのきれる海賊役…ということで声をかけたのだった)

  ぬいぐるみではフック船長の秘書役的なスミーのコミカルな動きと
ワニの軽快な動きが印象に残った。ワニはほぼ原寸大で作りもリアルに
出来ている。下にキャスターがついており、中に入った役者が主に肘を足を
使って動き回る仕組みだ。一直線に進む速さ、フックを追いかけるときの旋回性能の良さが
際立っていた。このワニ役者?は通称ウマさん。誰にも真似できない動きを身につけるために
すごい努力をしたことを後からきいた。
 しばらく後のことだが、ウマさんとスミーを演じたモトミさんは
「ひらけポンキッキ」でガチャピン、ムックを演じることになる。

 ところで、この劇で一番印象に残ったのはタイガーリリーの踊りだった。
 舞台センターで片足立ちで高速回転するバレエのフェッテという技が
本当に素晴らしかった。大きな面をかぶりながらきれいに顔を正面に
残しながら軸足がほとんどぶれないのだ。
 彼は本役のダンサーが都合で参加できないため、
大阪公演だけのピンチヒッターだったが、踊りを見た藤城がほれこみ、
そのまま東京公演続投となったというエピソードの持ち主だった。

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 キャストの中で子どもたちは面をかぶっていない。
ぬいぐるみと一緒でも特に違和感は感じなかった。
ただ、ピーターパンはスタイルが良すぎてやんちゃな感じがなかった。
子どもたちはほとんど木馬座演劇スクールの所属だが、一人例外がいた。
 ウエンデイ役の山添多佳子だ。
彼女はこの2年後にマークレスター主演の映画『卒業旅行』にヒロイン役で出演した。  
 フックに入っているのは制作部のチーフのTさんだった。
  彼は役者ではないが初演以来フックを持ち役にしているという。そういえば顔が
面に似ていなくもないのだが…フックの造形はディズニーのそれにそっくりでよくもまあ
裁判沙汰にならなかったものである。(ちょっとは抗議があったらしいが)
今よりはずいぶんとおおらかで、ぼくはその時代の方が好ましいと思っている。

 『ピーターパン』は昭和41年初演、翌年には児童演劇として初めて国立劇場で1カ月公演を
したという。その時の海賊船は実際に海に浮かべることもできるくらいに作りこまれていて、
それを国立劇場の回り舞台で盆回ししたエピソードは関係者で語り草になっていた。

 残念ながら目の前の海賊船に浮かぶ性能はなさそうだった…


長く短い夏が終わり…秋から初冬はツアーが続いた…それは次の話…
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プロフィール

楽葉サンタ

Author:楽葉サンタ
元児童劇団員、元図書館員…
リタイアした現在は幼児でも遊べる人形劇を楽しく研究中…
妻一人、子ども三人、孫四人

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