ぼくの木馬座始末記 30 就職・木馬座からの卒業
木馬座のぬいぐるみ演技研究生になって丸5年過ぎた昭和51年3月…
■ 卒業 ■
短大の卒業式を前に、人形劇サークルの 卒業生7人には
それぞれに子ヤギの指人形をプレゼントした。
サークルのおかげで楽しみの人形作りを継続できた感謝の気持ちだった。
新作「オオカミと七ひきのこやぎ」のオオカミを父に見せたとき
「よくできている…」といってくれた。日頃あまり感想を口にしないだけに
木馬座での経験が一つ認められたようでうれしかった。
「たちばな」という 学校新聞の卒業特集号には毎年卒業生の
名簿とともに就職先が掲載されている。
この時、図書館学科50名のうち公立図書館名が出ていたのは
ぼく一人だった。身勝手な青写真が現実のものになったありがたさを心から感じた。
この気持ちはそれからの仕事のベースにあったと思う。
■ 児童サービスへ ■
図書館では児童サービスの担当へ配属された。
一緒に仕事をするのは年齢が2歳下の女性Nさんとぼくと同い年の男性Oさん。
特技が活かせる部署のようだが図書館はいつも人形劇をやるところではない。
致命的に本の知識が少なかったため追い立てられるように
本棚の本を持ち帰って読むことになった。
先輩(同僚)二人には大変刺激を受けた。
Nさんは若いけれどすでに5年のキャリアがあり、仕事が早く、正確だった。
社会人として必要なことに頭が回らないぼくをその都度さりげなくカバーしてくれた。
そして柔軟なアイデアにいつも驚かされていた。
Oさんは元気でパワフルだった…今でも覚えている光景がある。
やさしい読み物が並ぶ本棚は利用が多く、夕方には大変乱れる。
書名のあいうえお順に並べ直すことをOさんは信じられない方法でやっていた。
千冊以上の本をすべて取り出し、あいうえおごとに山を作って本棚に戻しているのだ。
これを見てこんなことを毎日やっているのだとしたらぼくは出来そうもないなぁ…と思った。
幸いなことにOさんの行動は特別な時期の特別の手段だったことがわかり一安心したのだった。
職場にはこの二人に限らず、ぼくの考えていた図書館員像からはかけ離れた
たくさんの有能な若い人たちがいたのだった。
この年の5月18日ぼくとMは地元の市民会館でささやかに人前結婚披露宴をした。
媒酌人にはこれまで大変にお世話になった新井勢津朗さんご夫妻に無理を言ってお願いした。
就職して1カ月余りで結婚、新婚旅行の休暇を取るひどい新人なのにNさんとOさんから
夫婦湯呑みを いただいたのには本当に恐縮した。
■ 南国酒家の夜 ■
昭和51年4月7日、原宿の南国酒家で『ねむり姫』『ピーターパン』合同打ち上げが行われた。
これまで関わった演出家、美術家、スタッフ、出演者が60人以上参加した盛大な催しだった。
就職したばかりのぼくもMや弟たちとともにこの席に参加した。
会はなかなか熱気のある印象的なものだった。
多くの参加者の顔を見て、改めて演劇が大勢の力で成立するものだと思った。
そしてその場の雰囲気に限りなく居心地の良さと親しみを感じていた。
そしてこれが木馬座との別れとなる。
写真は南国酒家のホームページから借用した。原宿駅から表参道に入ってすぐの場所。
昨年の暮れ、前を通った。町並みはだいぶ変わったが、店のたたずまいは変わらない。
■ 木馬座の功罪 ■
「日本児童演劇史」(冨田博之著 1976年刊 東京書籍)という本がある。
ブログを書くにあたって何度か参考に開いた本だ。
明治期から70年代まで膨大な資料に基づいている点と木馬座についての
記述が大変フェアーな点で信頼できる。
この本の中で冨田は<木馬座の功罪>という見出しで次の5点を挙げている。
① 大劇場・高料金公演の確立
② ぬいぐるみ導入とと司会対話方式の演出
③ 名作物の大量導入
④ 藤城清治の美術
⑤ スペクタクルで夢のある舞台
⑤に関して、冨田は本の中で
「…武道館の中に這入ってみれば、ただスポーツカーに乗った縫いぐるみ人形がてをふっているだけである。」
というアニメーター九里洋二の文を紹介しつつも[スペクタクル性は]
「児童劇としてあっていいものだといえるのではないか。」と述べている。
ぼくは驚くことが楽しみの大きな要素だと考えているので、高料金で夢のある
テーマパークのような舞台にすることは選択肢として有りだと思う。
それを持続する困難さを木馬座が具現したのは残念なことだけれど。
上の写真は昨年6月6日に藤城清治の影絵展に行った時のものだ。
手前の大きな看板がある建物が元のスタジオ。美容室になっている。
その向こう側 で行列のあるる小さな建物が藤城清治のアトリエ。
昔は営業、票券、車両などが入っていた。
影絵展はアトリエで開催されていたのだが、
実はあまりの行列にこの時は入場をあきらめてしまった。
■ 始末記のおわりに… ■
ぼくは3年前に定年退職した。
残された期間に自分らしく何かを残すとしたら…と
自問自答の結果<幼児の身近に人形劇>を目に見える形で
アピールしたいと思ったのだった。
そうはいっても一人であちこち公演するわけではない。
作りやすく、動かしやすく、そして演技する人を蹴込み(衝立)から
解放する人形劇を工夫しようと思った。
そんな思いで昨年、自分の頭の中だけにある人形劇団を目に見える形にするため
ホームページを立ち上げた。これは更新に手間がかかるので、自分の記憶、思考を記録する
装置として 手軽なブログも合わせて始めることにした。
そしてアヨアン・イゴカーさんのブログに触発されてこの始末記を書くことになった。
書いていて…
人生に回り道も無駄なこともないのだということ。
たくさんの人に助けていただいたということ。
舞台の裏方がとても刺激的でワクワクするものだったということ。
こんなことを改めて感じていた。
これまでに お世話になった方々、出会った人々のあれこれは
ブログでは意がつくせなかった。 書き足りない部分は別な形で
まとめてみることも考えたい。
失ったものを嘆かず、恐れず、できることの中に<楽しいこと>を見出だしながら
今一歩前へ進んでいこうと思う。
お読みくださった皆さま ありがとうございました。
『ぼくの木馬座始末記 完 』 2012.3.31
■ 卒業 ■
短大の卒業式を前に、人形劇サークルの 卒業生7人には
それぞれに子ヤギの指人形をプレゼントした。
サークルのおかげで楽しみの人形作りを継続できた感謝の気持ちだった。
新作「オオカミと七ひきのこやぎ」のオオカミを父に見せたとき
「よくできている…」といってくれた。日頃あまり感想を口にしないだけに
木馬座での経験が一つ認められたようでうれしかった。
「たちばな」という 学校新聞の卒業特集号には毎年卒業生の
名簿とともに就職先が掲載されている。
この時、図書館学科50名のうち公立図書館名が出ていたのは
ぼく一人だった。身勝手な青写真が現実のものになったありがたさを心から感じた。
この気持ちはそれからの仕事のベースにあったと思う。
■ 児童サービスへ ■
図書館では児童サービスの担当へ配属された。
一緒に仕事をするのは年齢が2歳下の女性Nさんとぼくと同い年の男性Oさん。
特技が活かせる部署のようだが図書館はいつも人形劇をやるところではない。
致命的に本の知識が少なかったため追い立てられるように
本棚の本を持ち帰って読むことになった。
先輩(同僚)二人には大変刺激を受けた。
Nさんは若いけれどすでに5年のキャリアがあり、仕事が早く、正確だった。
社会人として必要なことに頭が回らないぼくをその都度さりげなくカバーしてくれた。
そして柔軟なアイデアにいつも驚かされていた。
Oさんは元気でパワフルだった…今でも覚えている光景がある。
やさしい読み物が並ぶ本棚は利用が多く、夕方には大変乱れる。
書名のあいうえお順に並べ直すことをOさんは信じられない方法でやっていた。
千冊以上の本をすべて取り出し、あいうえおごとに山を作って本棚に戻しているのだ。
これを見てこんなことを毎日やっているのだとしたらぼくは出来そうもないなぁ…と思った。
幸いなことにOさんの行動は特別な時期の特別の手段だったことがわかり一安心したのだった。
職場にはこの二人に限らず、ぼくの考えていた図書館員像からはかけ離れた
たくさんの有能な若い人たちがいたのだった。
この年の5月18日ぼくとMは地元の市民会館でささやかに人前結婚披露宴をした。
媒酌人にはこれまで大変にお世話になった新井勢津朗さんご夫妻に無理を言ってお願いした。
就職して1カ月余りで結婚、新婚旅行の休暇を取るひどい新人なのにNさんとOさんから
夫婦湯呑みを いただいたのには本当に恐縮した。
■ 南国酒家の夜 ■
昭和51年4月7日、原宿の南国酒家で『ねむり姫』『ピーターパン』合同打ち上げが行われた。
これまで関わった演出家、美術家、スタッフ、出演者が60人以上参加した盛大な催しだった。
就職したばかりのぼくもMや弟たちとともにこの席に参加した。
会はなかなか熱気のある印象的なものだった。
多くの参加者の顔を見て、改めて演劇が大勢の力で成立するものだと思った。
そしてその場の雰囲気に限りなく居心地の良さと親しみを感じていた。
そしてこれが木馬座との別れとなる。

写真は南国酒家のホームページから借用した。原宿駅から表参道に入ってすぐの場所。
昨年の暮れ、前を通った。町並みはだいぶ変わったが、店のたたずまいは変わらない。
■ 木馬座の功罪 ■
「日本児童演劇史」(冨田博之著 1976年刊 東京書籍)という本がある。
ブログを書くにあたって何度か参考に開いた本だ。
明治期から70年代まで膨大な資料に基づいている点と木馬座についての
記述が大変フェアーな点で信頼できる。
この本の中で冨田は<木馬座の功罪>という見出しで次の5点を挙げている。
① 大劇場・高料金公演の確立
② ぬいぐるみ導入とと司会対話方式の演出
③ 名作物の大量導入
④ 藤城清治の美術
⑤ スペクタクルで夢のある舞台
⑤に関して、冨田は本の中で
「…武道館の中に這入ってみれば、ただスポーツカーに乗った縫いぐるみ人形がてをふっているだけである。」
というアニメーター九里洋二の文を紹介しつつも[スペクタクル性は]
「児童劇としてあっていいものだといえるのではないか。」と述べている。
ぼくは驚くことが楽しみの大きな要素だと考えているので、高料金で夢のある
テーマパークのような舞台にすることは選択肢として有りだと思う。
それを持続する困難さを木馬座が具現したのは残念なことだけれど。

上の写真は昨年6月6日に藤城清治の影絵展に行った時のものだ。
手前の大きな看板がある建物が元のスタジオ。美容室になっている。
その向こう側 で行列のあるる小さな建物が藤城清治のアトリエ。
昔は営業、票券、車両などが入っていた。
影絵展はアトリエで開催されていたのだが、
実はあまりの行列にこの時は入場をあきらめてしまった。
■ 始末記のおわりに… ■
ぼくは3年前に定年退職した。
残された期間に自分らしく何かを残すとしたら…と
自問自答の結果<幼児の身近に人形劇>を目に見える形で
アピールしたいと思ったのだった。
そうはいっても一人であちこち公演するわけではない。
作りやすく、動かしやすく、そして演技する人を蹴込み(衝立)から
解放する人形劇を工夫しようと思った。
そんな思いで昨年、自分の頭の中だけにある人形劇団を目に見える形にするため
ホームページを立ち上げた。これは更新に手間がかかるので、自分の記憶、思考を記録する
装置として 手軽なブログも合わせて始めることにした。
そしてアヨアン・イゴカーさんのブログに触発されてこの始末記を書くことになった。
書いていて…
人生に回り道も無駄なこともないのだということ。
たくさんの人に助けていただいたということ。
舞台の裏方がとても刺激的でワクワクするものだったということ。
こんなことを改めて感じていた。
これまでに お世話になった方々、出会った人々のあれこれは
ブログでは意がつくせなかった。 書き足りない部分は別な形で
まとめてみることも考えたい。
失ったものを嘆かず、恐れず、できることの中に<楽しいこと>を見出だしながら
今一歩前へ進んでいこうと思う。
お読みくださった皆さま ありがとうございました。
『ぼくの木馬座始末記 完 』 2012.3.31
スポンサーサイト