武州中山道を歩いて19 久下の長土手リベンジ
前回一里塚をさがせず熊谷駅まであるいた日…
家に戻って確認したところ、土手の上から遠くに見えて
目標にしたマンションの裏に一里塚があるはずだった…
日を改めての再挑戦…
行田駅に降り立ち 西口ロータリーに出ると
正面に三つの大きなマンションが目に入る
そしてマンションの左右には土手が広がっている
駅からこれだけはっきり見えるのにどうしてこの間は
土手から駅が見えなかったのか…
近づくとあっけなく一里塚の案内板が見つかった
一里塚は土手の一番下にあった…
このあたりでは堤防がはっきり3段階に分かれ、
時代を追って順次積み上げていったことが分かるのだった…
土手の中段には馬頭観音の小さな石碑があった…
ここでスケッチブックを広げる…
さて、土手を見上げると左手に大きな石碑が見える…
前回通った時にも立ち止まった<堤防決壊の碑>だ…
昭和22年(1947)9月のカスリーン台風でこの場所から決壊し
利根川の決壊と併せて東京方面に流れだし、
死者、行方不明者併せて2千人近い被害をだしたという…
そこからは至極順調に旧中山道を歩いていった…
1キロほど行った土手下に<久下堤碑>と読める大きな石碑が立っていた…
後で調べてみるとこの場所は荒川の瀬替えの際、元荒川を締め切る堤防が作られた…
しかし、カスリーン台風被害に先立つ明治43年の大雨で決壊寸前となり、
4キロメートルに渡って修復したことを記念し明治45年に建立したらしい…
そんないわれまではわからなかったが、大きさと風格が気に入りスケッチした…
石碑を過ぎると道は土手を離れていく…
熊谷市のすごいところは色々な史跡に郷土に因んだいろはかるたが
表示されていることにも感じられる…
たとえば久下神社の少し先の住宅地に二つの門柱だけが残っている空き地があり、
<流灯会(りゅうとうえ)今は昔の不動さま>
という札が立っている…門柱には『成田山』の文字が読みとれた…
その先で道はまたもう一度土手をちょっとだけ登る…
そこに<久下の渡し水没橋記念碑>があった…
案内板を見るとその橋は全長300メートルほどの木橋で
大水の時は冠水したのだという…
そしてつい最近の2003年に新久下橋が完成するまで現役で
熊谷市と対岸の大里町を結ぶ重要な交通手段だったようだ…
こうした立派な記念碑が建立されたことからも橋が地元に愛されていたことが
伺えるのだった…傍らのベンチは橋の主桁を使っているそうだ
土手を下りてまた道を進むと元荒川にぶつかった…
しかし吹上で見た時より抜群に水がきれいだ…
清流に長い水草が川底いっぱいに揺らいでいる光景はぼくが子どもの頃、
多摩川に支流で遊んだ光景を思い出させてくれるものだった…
そこに案内板があり清流にしか住まないトゲウオ科の<ムサシトミヨ>が
国内で唯一生息する貴重な場所であることが記されていた…
もちろん釣りは出来ない…
さて、もう少しで熊谷駅という場所で一里塚の案内板を見つけた
通称 八丁の一里塚 だ…公園と自治会館がある敷地に立っている
これを確認してほんの1,2分歩くとそこはもう熊谷駅構内となり
秩父鉄道、高崎線、上越新幹線の大きな踏切を渡ることになる…
その先は熊谷宿がまっている… ⇒№ 20に続く